広島シティオペラ タンホイザー公演を終え、エリーザベト役から離れて1週間以上が経過し、ようやく予定も気持ちも落ち着いてまいりました。ご来場くださいました方々、誠にありがとうございました!
昨年のトゥーランドットに続いて、2年連続の大きすぎる役へのチャレンジ、七転八倒しつつ、多くの皆様のご助力のお蔭様で、幕が下りました。
個人的には正直に申しますと、計画通りに運べたところと、そうでないところと、いろいろ入り混じった本番でございました。
ワーグナーの魔力といいますか、稽古では一度も起こったことのないことが自分の中でいくつも起こった舞台でした。最後まで迷って、GP後に再修正をかけようとチャレンジした箇所もありました。
最後まで諦めずに、一歩でも半歩でも前進したい。舞台に上がる人間誰もが「足掻き尽くす」ところなのかもしれませんね。まだまだ修行半ばでございます。
以前にも書きましたが、譜読み開始当初はエリーザベトという人があまり好きになれず、綺麗な言葉をたくさん並べるけれど、その本心がどこにあるのか見えづらいと感じていました。
役と向き合ううちに
「あぁ、この女の子、最後の最後にやっと自分の弱さを受け入れることが出来て、救われたんだなぁ」
と思うと、愛しくてならない役になりました。
2幕で愛するタンホイザーの裏切りを知ったエリーザベトは、苦しみ悶絶しながらも彼を赦し、
「自分の命は、タンホイザーの救いを祈るためだけにあります!」
と宣言します。
・・・ここで私個人としては
「人間って、そんなに簡単に強くはなれないんじゃない?」と思うわけです。
自分の身を犠牲にして誰かの救いを得るって、ものすごく高揚感のあるヒロイズムではあるけれど。
まぁ、エリーザベト役なのでね、使命に陶酔してる人を演じる訳ですが。
3幕に入り、愛するタンホイザーが罪を償って帰ってきてくれることを信じて祈り続けるエリーザベト。
苦悩と心の痛みをかき消しながら、祈って祈って、待って待ち焦がれた巡礼者の列にタンホイザーの姿がなかった時、彼女は絶望します。
巡礼者たちの高らかな讃美の「ハレルヤ」に、
私のエリーザベトはこの上なく傷つくのです。
この「ハレルヤ」シーンは、思い出すだけでも心が痛くなって、涙が滲みます。
この後に続くエリーザベトの祈りのアリアは、
「救いは、その人の行いによって与えられるものではなく、ただ、神様からの慈悲と恵みによってのみ救われるのです」
という、聖書の教えそのものを歌詞にしたような内容です。
非常に美しいこのアリア、様々な解釈はあるかもしれませんが、私の中では、前半はめちゃくちゃ悶絶して、神様に訴えておりました。
神様、こんなに祈って願っているのに、聞いてくださらないのなら、
どうか私を塵に返して欲しい、私はもうこの地上に居たくないのです
とまで訴えるのです。
そして、最期の懺悔の告白の後、アリアの終盤にある歌詞
Doch, konnt'ich jeden Fehl nicht büssen,
so nimm dich gnädig meiner an,
nimm dich gnädig meiner an
(訳;それでも、全ての過ちを贖うことができないなら、
あなたの恵みによってのみ救いを得ることができるのです)
私のエリーザベトの転機は、この2回目のnimm dich gnädig meiner anです。
字幕的には1回でまとめて表示されてしまうところなのかもしれませんが、このnimm dich gnädig meiner anの部分を"p"で繰り返して2度歌っているんです。
つまり、私の中では、2回目の訳は
「あなたの恵みによってのみ・・・救われるということなのですね」と解釈しています。
正しく生きたから、人のために尽くしたから、善行を積んだから、・・・ではなく、
「赦される」とは、ただ「神様からの恵によってのみ」叶うこと。
「救い」の本質にようやく気が付いたエリーザベトは、
多分、生まれて初めて、心から祈ることができるようになったのだと思います。
「愛する人の罪が赦されますように」と。
犯してしまった罪も含めて、彼のことを愛し、赦すことが出来たエリーザベト。
気づきを得たエリーザベトは、自分と愛するタンホイザーの救いに確信を持って山に入って行きます。
幼い時からずっと見守り続けて静かな愛情を注いでくれていた騎士ヴォルフラムに最後の感謝を告げて山に向かうこのシーン、全幕中、私が最も好きなシーンです。もう歌うパートは全て終わって、演技のみなのですが、何度も何度も独り稽古を重ねたシーンです。
この後、山に入ったエリーザベトは神様の元に召されます。
苦行の巡礼の末にぼろぼろになってローマから帰ってきたタンホイザーは、命を捧げたエリーザベトの祈りによって救いを得てから命尽き、オペラは幕となります。
最終幕の巡礼の大合唱と、女性コーラスの「ハレルヤ!」の重なりは、何度聞いても感動で涙がでます。
そう、エリーザベト最期の祈りのアリア前の巡礼の合唱でこの上なく傷ついた「ハレルヤ」の讃美が、女声で歌われることで、エリーザベトの言葉として会場中に響き渡る、と私は思っています。
・・・実は、音には出していないのですが、私のエリーザベトは、山に入る前、救いの確信を得た後、
「ハレルヤ」の言葉をつぶやいてから山に入って行きます。音符になっている訳ではないので、歌う訳にはいかないので、口の形で「ハレルヤ」と呟きました。
このエリーザベトの「ハレルヤ」を、最後の女性合唱に重ねたかったのです。
この解釈は、もちろん私のご勝手オリジナルなので、演出家のお許しを得て演技いたしました。
最後、とてつもない幸福感につつまれる役(亡くなるんだけどね)で、演じた私自身にもこの上ない幸せをいただける時間でした。
だからこそ、もう1回チャレンジしたい、という思いが強いです。
敢えて白状しますと、心残りの箇所があるから。
自分の今後の歌人生で、エリーザベト全役を歌える機会は、トゥーランドット以上に難しいかもしれないですが、どうかどうかこの役をもう一度生きる機会がありますように。
ワーグナー先生の音楽、すっかり虜になってしまいました。
信奉者「ワグネリアン」の方々が存在する理由、今更ながら納得いたしました。
本当に、素晴らしい世界観と音楽です。ああ、再びあの殿堂へ帰れますように!
感傷に浸る間もなく、次は椿の花を持つ女、パリのスミレちゃんが待っております。
待ってて、ヴェルディ先生!
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